専門家コメント
癌細胞の細胞死促進に向けた物理的法則性の解明
Ver.1.2 (111125-16:00)
・これは、2011年11月15日にジャーナリスト向けに発行したサイエンス・アラートです。
・記事の引用は自由ですが、末尾の注意書きもご覧下さい。
<SMC発サイエンス・アラート>
癌細胞の細胞死促進に向けた物理的法則性の解明について:専門家コメント
11月7日に英国科学専門誌「Scientific Reports」で発表された論文において、「実験データと物理的法則に基づいた、癌細胞シグナル伝達の新たな計算モデルを開発し、このモデルにより、癌細胞を細胞死(アポトーシス)へと誘導するための新たな分子が存在する」と予測されていることについて、研究に関わった専門家(クマール・セルバラジュ博士、ヴァンサン・ピラス氏)と第三者の専門家のコメントをお伝えします。
この10年以上、科学者たちは、TRAILというタンパク質の研究に深く従事してきました。TRAILは生体内の免疫システムで作られ、悪性腫瘍(癌)を攻撃します。TRAILを治療に用いる利点は、従来の化学療法や放射線治療に比べて、周囲の正常組織に影響を与えずに、癌細胞を特異的に攻撃できることです。これは細胞自身が持つメカニズムで、プログラム化された細胞死(アポトーシス)と呼ばれています。しかし、多くの癌腫はTRAILが引き金となって引き起こす細胞死のシグナルを、細胞生存シグナルへと切り替えてしまうことができるため、これまでTRAILを用いた治療法が成功したケースはありませんでした。
慶應義塾大学先端生命科学研究所のクマール・セルバラジュ特任講師を始めとする研究チームでは、コンピュータを用いたモデルと根本的な物理的法則を使うことによって、癌細胞を細胞生存の状態から細胞死を誘導する状態へと切り替えるための、新たな標的因子の存在を予測しました。これを取り除くことで、TRAIL由来のシグナルのほとんどをカスパーゼ(酵素)誘導性の細胞死誘導経路へと切り換えることができると期待できます。さらに本手法は、物理的法則に基づいた新規手法であるため、TRAILに限らずどのようなシグナル伝達経路においても汎用的に用いる事で、様々な現象の理解にも繋がります。
原著論文:Vincent Piras, Kentaro Hayashi, Masaru Tomita, and Kumar Selvarajoo. "Enhancing apoptosis in TRAIL-resistant cancer cells using fundamental response rules" Scientific Reports, November 07, 2011 【リンク】
クマール・セルバラジュ博士(Kumar Selvarajoo)
特任講師、慶應義塾大学先端生命科学研究所 * 研究チーム・リーダー
癌を研究している生物学者たちは、癌細胞の細胞生存を抑制する方法、または、癌細胞の細胞死を促進する方法、の二つのどちらかに焦点をあてて研究しています。我々は、同時に両方のプロセスを考慮したシステマティックな手法が必要であると考えました。これまでの研究として取り組んできた、基本的物理法則に基づいて行ったToll様受容体のシグナル伝達モデルでの経験は、今回の成果であるTRAILシグナル伝達経路における細胞生存と細胞死の分岐点を見つける上で役に立ちました。
本研究グループでは、TRAIL耐性を持つ癌細胞の細胞死を促進する標的因子として、シグナル伝達分子であるp62と相互作用している新たな分子の存在を予測しています。セルバラジュ特任講師は、さらに次のように説明しています。p62と相互作用する細胞死を促進する新たな分子が存在すると予測はできましたが、確実にそうであると言うためには、これから実験的な検証が必要となります。とはいえ、生物学的問題に対して自然の法則を利用することは、癌や炎症などの複雑な病気の理解と治療に革命をもたらすかもしれません。その点で、今は非常に前向きに考えています。
【コメント原文】
Cancer biologists focus either to suppress the cell survival pathways or to enhance the apoptosis mechanisms independently. We felt a systemic approach considering both processes at the same time is necessary. Our previous experience working on the Toll-like receptor signaling models, based on fundamental physical rules, helped us to identify a target at the crossroad of the survival and apoptosis pathways in TRAIL signaling.
The scientists predict that a novel molecule interacting with p62 could be a crucial target for enhancing apoptosis of TRAIL-resistant cancer. “Although we suggest this, experimental validation is required for final confirmation as a next step. Nevertheless, using the law of nature to address biological problems could potentially revolutionize the way we understand and treat complex diseases such as cancer and inflammation. In this respect, we feel very optimistic.
ヴァンサン・ピラス(Vincent Piras)
博士課程学生、慶應義塾大学先端生命科学研究所
TRAILシグナル伝達のプロセスについての知見は、まだまだ十分ではありません。始めに、我々は実験データと一致するシミュレーションモデルを開発しました。信頼できるシミュレーションモデルを作り上げるには、既知のTRAILシグナル伝達経路を調整する必要があることがわかりました。我々が新たに構築した反応ルールに従い、シグナル伝達経路におけるクロストークを調整し、新たに調整した経路の生物学的妥当性を確認しました。最終的には、3カ所の大きな変更箇所を見つけました。この情報をモデルに組み込む事で、通常の癌細胞と変異体癌細胞における、細胞生存と細胞死に関わる分子を正確にシミュレーションできるようになりました。我々が知る限り、複数の実験条件を一つの計算モデルでシミュレートすることができたのは今回が初めてです。
【コメント原文】
Vincent Piras and Kentaro Hayashi, joint first authors for the study, say that the currently known signaling process of TRAIL is insufficient. “First, we developed a computational model to match experimental data with simulations. We found that the topology we know of TRAIL’s downstream signaling needs to be adjusted in order to make trustable simulations. We modified the crosstalk very carefully with response rules and checked it with biological plausibility. In total, we had to make three major insertions. Adding this information into our model, we were able to simulate accurately the key survival and death molecules in wildtype and several mutant cancer cells. To our knowledge, this is the first time a single computational model can simulate multiple experimental conditions”, says Vincent Piras, a final-year doctoral student.
ジャネット・オリバー教授(Janet Oliver)
米国・ニューメキシコ大学病理学科
がん治療では、がん細胞内において、特定の成長を促進したりアポトーシスを阻んでしまう因子を停止させる方法が試みられてきましたが、多くの場合、腫瘍の成長を止めることはできませんでした。ヴァンサン・ピラスを始めとする研究チームの論文によれば、彼らはTRAILを用いた癌治療で、TRAILの働きを邪魔する細胞内の仕組みに光をあてました。TRAILは、特定の分子と化合する「リガンド」という低分子化合物で、「死の受容体」とも呼ばれます。がん細胞上に発現するTRAIL-R1とTRAIL-R2(別名DRとDR5)はしょっちゅう変化します。
研究チームは、がん細胞において、「死の受容体」やそれに似た「おとり受容体」が組み合わさって発現するときや、より下流にあるシグナル分子で、TRAILによって不死化を促進したりアポトーシスを促進したりする異なる経路が不安定に存在する時のTRAILのシグナル・ネットワークを表す、動的な計算モデルを開発しました。
このモデルは、がんの単剤療法がなぜしばしば失敗してしまうのか、その理由を解明するのに役立つでしょう。また、さらに重要なのは、複数の薬剤を組み合わせることによって、TRAILシグナルの不安定な流れを誘導して確実に細胞を自然死に向かわせる新しい治療法を予測することができるかもしれません。
【コメント原文】
Targeted strategies intended to arrest particular growth-promoting or apoptosis-defying pathways in cancer cells often fail to prevent tumor growth.
A new publication from Piras et al. throws light on resistance mechanisms to therapies using TRAIL, a ligand for the so-called Death Receptors, TRAIL-R1 and TRAIL-R2 (also called DR and DR5) whose expression is often altered on cancer cells.
The team developed a dynamic mathematical model to represent the TRAIL signaling network in tumor cells when different combinations of death and competing decoy receptors are expressed and when different downstream signaling molecules in TRAIL-sensitive pro-survival and pro-apoptotic pathways are perturbed.
Their model helps to explain why single agent therapy so often fails and, importantly, predicts new targets in the TRAIL signaling pathways for combination therapies that may shift the flux of signals firmly towards apoptosis.
岡田 眞里子(おかだ まりこ)
細胞システムモデル化研究チームリーダー 免疫・アレルギー科学研究センター 独立行政法人理化学研究所
細胞シミュレーションの場合、詳細なモデルを作り、実験データを大量にとり、これらを互いに照らし合わせながら、少しずつモデルを現実に近づけて修正していくというやり方をします。しかし、これは非常に手間のかかることでした。彼らの開発した新しい手法では、未知の反応系の場合でも、ざっくりとしたモデルから、理論立てて、正しいモデルに近づくことができ、モデリングの労力を短縮できます。私も、シグナル伝達による細胞の運命決定の研究を進めていますが、この提案されたプログラムは私たちの研究にも役に立ちます。彼らの開発したプログラムにより、この研究の一番大変な、データをたくさん集めたり、モデルを数多くつくったりして合わせていく部分の苦労を減らすことができるので、生物学者にとっても細胞反応のシミュレーションが身近になるのではないでしょうか。
また、彼らの研究は、今成果をあげている「京」のプロジェクトなどでも、細胞シミュレーションのモデル作りに役に立つのではないかと思います。またこれらのプログラムをうまく汎用化すれば、シグナル伝達を標的とした薬剤スクリーニングに応用できると思います。
アルフレッド・コロシモ(Alfredo Colosimo)
医療生物物理学教授、イタリア・ローマ大学人間生理薬理学部
セルバラジュ教授がローマで研究会を開いた際に個人的にお会いする機会があり、彼の研究の妥当性と発表のうまさに感心しました。
薬理学的な多くの治療に対して抵抗性を持つ悪性細胞に関するデータは、しばしば対立します。これに対して、彼らの研究チームが、コンピュータを用いて新しいアプローチをしたことを高く評価します。
先日Scientific Reports誌に掲載された論文では、治療に抵抗性のある癌細胞の顕著な例について、明確に彼の戦略と成果が示されていました。さらに、より一般的な事例についても問題を克服するための戦略が示されていました。
私は、本研究のアプローチのメリットは少なくとも二つあると考えています。一つは、単純化した仮説モデルを使ってみることの必要性と、複雑な生体システムを定量的に記述する上で 適切な“システマティック”な視点を用いる必要性を明確に示していることです。二つ目は、彼らの構築したモデルは、最近の実験から得られた情報をそのまま用いており、同時に更に容易に改善していくことができ、こうした現実的で柔軟性のあるモデルの研究の重要性を記していることです。
【コメント原文】
I had the chance to meet personally prof. Selvarajoo in the occasion of a seminar he delivered in Rome, and was impressed by both the relevance of his work and the efficacy of his presentation style.
I could appreciate the novelty of their computational approach to find a rationale in the often contrasting data concerning the malignant cells resistance to many pharmacological treatments.
The paper recently appeared in Scientific Reports clearly describes his strategy and results in a very significant case of therapy-resistant cancer cells; it also indicates a strategy to overcome the problem in quite general terms.
In my opinion the merit of such an approach is at least twofold現実的で柔軟性のあるモデルとして: i) it underlines the necessary use of simplifying assumptions and of appropriate "systemic" viewpoints in the quantitative description of complex biological systems, and ii) it shows the importance of working out realistic and flexible models, directly inspired by the current experimental information and, at the same time, easily amenable to any further improvement.
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