マウスを用いた実験により、鉄が哺乳類のオス化を促す可能性を示唆
・これは、2025年6月6日にジャーナリスト向けに発行したサイエンス・アラートです。
・記事の引用は自由ですが、末尾の注意書きもご覧下さい。
<SMCJ発サイエンス・アラート>
マウスを用いた実験により、鉄が哺乳類のオス化を促す可能性を示唆 :専門家コメント
鉄欠乏が妊娠中のマウスにおいて、XY染色体を持つ一部の胎児が卵巣を形成する原因となる可能性があることが報告された。通常、XY染色体は精巣の発達を司るSry遺伝子によって男性の性分化が決定されるが、この遺伝子の発現にはFe²⁺を必要とする酵素KDM3Aの働きが関与している。本研究によると性決定の時期にマウス胎児の生殖腺ではFe²⁺の蓄積を促す遺伝子が活性化しており、培養細胞で鉄を約40%に減らすとSry遺伝子の発現が抑制され、XY個体でも卵巣発達のマーカーが現れた。短期間の鉄欠乏を妊娠マウスに誘導した実験では、72匹中5匹のXY個体が卵巣や混合型の性腺を持って出生した。また、長期的な鉄欠乏ではKDM3Aの機能喪失と組み合わせた場合に限り、XY個体に性転換が観察された。正常な鉄状態ではこうした異常は確認されなかった。本研究は哺乳類の性決定における鉄の重要性を示唆するものである。
論文リンク:https://www.nature.com/articles/s41586-025-09063-2
掲載誌:Nature
論文タイトル:Maternal iron deficiency causes male-to-female sex reversal in mouse embryos
福井 由宇子 特任研究員
国立成育医療研究センター 研究所分子内分泌研究部
<コメント本文>
ヒトにおけるSRY発現制御の分子メカニズムは未解明な部分も残るため、そのままマウスでのストーリーが当てはまるわけではないことには留意が必要です。しかし、今回の発表論文は、エピジェネティック修飾に必要な母体血中金属イオンという、これまであまり注目されたこなかった新たな視点を提供しました。ヒトの精巣機能低下は非典型的な内外生殖器異常を伴う性分化疾患 (Disorders of Sex Development: DSD) に分類されます。DSD の出生頻度は0.5% 程度であり、精巣機能低下はさらにその一部であることから、一般集団を対象とした大規模コホートでの疫学調査によって初めて検証が可能です。 今回の発見が、DSD研究の新たな展開を促すことを期待しています。
諸橋憲一郎 客員教授
久留米大学
<コメント本文>
胎児期に決定される性腺の性は、その後の個体全体の性に大きな影響を及ぼす。これまでに様々な細胞増殖因子や転写因子、シグナル伝達因子などが性腺の性分化に関与することが示されてきた。筆者らは前回の論文で、初めてエピジェネティック制御因子(H3K9me1/2の脱メチル化酵素KDM3A)が性決定(精巣決定)遺伝子Sryの制御を通じ、性分化に関与することを示した。
今回の論文では、KDM3Aの活性に必要な鉄の重要性について検討している。実験では、胎仔期の未分化性腺において、鉄がKDM3Aの活性上昇とSry遺伝子の発現上昇を引き起こし、精巣形成を誘導することをin vitroならびにin vivo実験によって明らかにした。中でも、薬剤処理によってマウスの妊娠母体ならびに胎仔を鉄欠乏状態にすると、効率は低いものの精巣が卵巣へ性転換するとの結果は興味深い。
この結果は、ヒトでも妊婦が極度の鉄欠乏に陥った場合、胎児に性転換が誘導される可能性を示しており、栄養学や周産期医学などの分野に大きなインパクトを与えると思われる。性転換が認められる胎仔性腺には、精巣へ分化している細胞と卵巣へ分化している細胞が混在するようであるが、scRNA-seqやscATAC-seqの情報があれば、さらに詳細に性転換を議論できると思われた。今後の解析を期待したい。
金井克晃 教授
東京大学獣医学専攻獣医解剖学研究室
<コメント本文>
本研究は、哺乳類の性決定機構において鉄が中心的な役割を果たすことを明らかにした点で、非常に画期的といえます。マウスで性が決まる上で、未分化な生殖原基(生殖腺)から、機能的・代謝的に大きく異なる精巣あるいは卵巣へと発達するスイッチとなるのが、Y染色体上に位置するSry遺伝子の発現です。 これまでの研究では、胎児期の精巣形成は卵巣形成よりも多くの形態形成や遺伝子発現を必要とし、Sry遺伝子の発現後すぐ、グリコーゲンの蓄積や体細胞数の増加、毛細血管の構築など、活発なエネルギーが必要であることがわかっています。 本研究の重要な点は、精巣形成に多量の鉄が必要であり、さらにその頂点に立つSry遺伝子の発現自体が鉄に依存していること、加えてその仕組みも明らかにしている点です。
この研究ではSry遺伝子が発現する一つ前の段階でのスイッチ機構(エピゲノム)の制御にKDM3Aという酵素が決定的な役割を果たしていることを突き止めています。鉄が不足するとKDM3Aの活性が低下し、Sryの発現も減少することが証明されました。また、性決定期に胎児の生殖腺で鉄の生理的取り込みが上昇することも示され、Sry遺伝子の発現と鉄代謝の密接な関係が解明されたといえます。 本研究は、鉄代謝と性決定の頂点にあるSry遺伝子の発現メカニズムを明らかにした点で高く評価できます。さらに、今回の研究の鍵となった酵素と性質の似ているKDM6Bという酵素は爬虫類などの温度依存性性決定機構に関与することが分かっています。つまり、鉄とエピジェネティクスによる性決定制御が哺乳類にとどまらず、脊椎動物全体に保存された仕組みである可能性も示唆されます。
実際にヒトの妊婦さんで本実験のマウスで行ったレベルの深刻な鉄不足までは至らないように思います。しかし、本論文で考察されているように鉄不足は世界的に妊婦の約40%で確認されているようです。本研究で示されたように、鉄がKDM3Aを介してSry遺伝子の発現制御に直接関与するのであれば、ヒト胎児においても一過性の鉄不足が性決定過程に影響を及ぼす可能性があります。胎児の鉄不足による貧血は、心臓・胎盤・神経系などの器官形成異常とも関連しているとも考えられているため、妊娠中に適切に鉄分を補給する重要性を示唆する研究ともいえます。
眞貝洋一 チーフサイエンティスト
理化学研究所 クラスター開拓研究本部 セルラー・メモリー研究室
<コメント本文>
マウスの実験結果ではあるが、様々なアプローチで、Fe²⁺代謝が哺乳類のオス化(生殖組織の精巣化)のスイッチを入れるSRYの機能を制御していること、Fe²⁺を欠乏させるとSRYが適切に機能できなくなるため遺伝的にはオス型(XYの性染色体を有する)の個体でもメス化する(精巣の代わりに卵巣が作られる、性転換する)個体が現れることを証明した。同グループは、これまでに、Sry遺伝子の発現を正に制御するKDM3Aを遺伝子改変して機能できなくすると(ノックアウトすると)XYマウスが高頻度で性転換することを示してきた。このKDM3Aの活性はFe²⁺に依存していることから、今回の知見はある程度予想された結果かもしれないが、実際にそれが示され、何よりも重要な点は、遺伝子改変といった方法ではなく、単にFe²⁺を枯渇させるだけで性転換を誘導できることを示した(ただし、KDM3Aの機能が下がっている個体(Kdm3aヘテロノックアウトマス)での実験ではあるが)点にあるだろう。ヒトにおける展開の可能性(人でも同じことが起きるか)に関しては、論文でも書かれているように、食糧問題により全世界の妊婦の3人に一人が貧血状態に陥っていることに鑑みると、まずは、人でも鉄欠乏で同じことが起きるのか疫学調査の結果がなされるべきだろう。少なくとも、SRYが不全だと性転換が起きることは人や家畜でも観察されることであり、KDM3Aは哺乳類でも保存されていることから、SRYの発現制御がマウスと同様にKDM3Aによってなされている可能性は高いものの、それ以上のことは不明である。また、マウスの性転換が妊娠したマウスのFe²⁺欠乏で誘導できたとはいえ、その頻度はかなり低いこと、また、KDM3Aの機能が下がっている状況でのみ観察されたことから、ヒトにおいても単にFe²⁺の枯渇だけでは性転換は誘導されないのかもしれない。最後に、SRY不全で性転換した家畜は、メス化した生殖器を有していても、生殖能がない(正常なメスではない)ことがわかっている。
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