老化した細胞が鉄誘導の細胞死を起こしづらい仕組み
老化した細胞が鉄誘導の細胞死を起こしづらい仕組み
がん研究会がん研究所細胞老化研究部を中心とするグループは、リソソームの内部が老化細胞では中性に近づくことで、老化細胞においてリソソーム内部に鉄が滞留し、鉄依存性の細胞死である「フェロトーシス」が生じにくくなることを明らかにした。研究チームは、老化細胞ではリソソームの酸性度を保つ V-ATPaseというタンパク質複合体の機能が低下しているためにリソソーム内部が中性に近くなり、これにより 2 価鉄イオン(Fe2+)がリソソームに留まることで、フェロトーシスの原因となる脂質過酸化反応が細胞全体で生じにくくなることを発見した。また、リソソームを酸性化させる薬剤を処置した老化細胞は、フェロトーシスを引き起こしやすくなることを見出した。さらに、膵臓がん細胞も老化細胞と同様のリソソーム機能異常を示すことから、リソソームを酸性化させる薬剤によって膵臓がんの発症や進行を抑えられることがわかった。リソソームの酸性度を制御することが、がんを含む加齢関連疾患の新たな治療戦略となる可能性が示唆された。論文は、7月29日、Nature Communicationsに掲載された。
【論文リンク】https://www.nature.com/articles/s41467-025-61894-9
【掲載誌】Nature Communications
【掲載日時(日本時間)】7月29日18:00
諸橋憲一郎 久留米大学 客員教授
胎児期に決定される性腺の性は、その後の個体全体の性に大きな影響を及ぼす。これまでに様々な細胞増殖因子や転写因子、シグナル伝達因子などが性腺の性分化に関与することが示されてきた。筆者らは前回の論文で、初めてエピジェネティック制御因子(H3K9me1/2の脱メチル化酵素KDM3A)が性決定(精巣決定)遺伝子Sryの制御を通じ、性分化に関与することを示した。
今回の論文では、KDM3Aの活性に必要な鉄の重要性について検討している。実験では、胎仔期の未分化性腺において、鉄がKDM3Aの活性上昇とSry遺伝子の発現上昇を引き起こし、精巣形成を誘導することをin vitroならびにin vivo実験によって明らかにした。中でも、薬剤処理によってマウスの妊娠母体ならびに胎仔を鉄欠乏状態にすると、効率は低いものの精巣が卵巣へ性転換するとの結果は興味深い。
この結果は、ヒトでも妊婦が極度の鉄欠乏に陥った場合、胎児に性転換が誘導される可能性を示しており、栄養学や周産期医学などの分野に大きなインパクトを与えると思われる。性転換が認められる胎仔性腺には、精巣へ分化している細胞と卵巣へ分化している細胞が混在するようであるが、scRNA-seqやscATAC-seqの情報があれば、さらに詳細に性転換を議論できると思われた。今後の解析を期待したい。
金井克晃 東京大学獣医学専攻獣医解剖学研究室 教授
本研究は、哺乳類の性決定機構において鉄が中心的な役割を果たすことを明らかにした点で、非常に画期的といえます。マウスで性が決まる上で、未分化な生殖原基(生殖腺)から、機能的・代謝的に大きく異なる精巣あるいは卵巣へと発達するスイッチとなるのが、Y染色体上に位置するSry遺伝子の発現です。 これまでの研究では、胎児期の精巣形成は卵巣形成よりも多くの形態形成や遺伝子発現を必要とし、Sry遺伝子の発現後すぐ、グリコーゲンの蓄積や体細胞数の増加、毛細血管の構築など、活発なエネルギーが必要であることがわかっています。 本研究の重要な点は、精巣形成に多量の鉄が必要であり、さらにその頂点に立つSry遺伝子の発現自体が鉄に依存していること、加えてその仕組みも明らかにしている点です。
この研究ではSry遺伝子が発現する一つ前の段階でのスイッチ機構(エピゲノム)の制御にKDM3Aという酵素が決定的な役割を果たしていることを突き止めています。鉄が不足するとKDM3Aの活性が低下し、Sryの発現も減少することが証明されました。また、性決定期に胎児の生殖腺で鉄の生理的取り込みが上昇することも示され、Sry遺伝子の発現と鉄代謝の密接な関係が解明されたといえます。 本研究は、鉄代謝と性決定の頂点にあるSry遺伝子の発現メカニズムを明らかにした点で高く評価できます。さらに、今回の研究の鍵となった酵素と性質の似ているKDM6Bという酵素は爬虫類などの温度依存性性決定機構に関与することが分かっています。つまり、鉄とエピジェネティクスによる性決定制御が哺乳類にとどまらず、脊椎動物全体に保存された仕組みである可能性も示唆されます。
実際にヒトの妊婦さんで本実験のマウスで行ったレベルの深刻な鉄不足までは至らないように思います。しかし、本論文で考察されているように鉄不足は世界的に妊婦の約40%で確認されているようです。本研究で示されたように、鉄がKDM3Aを介してSry遺伝子の発現制御に直接関与するのであれば、ヒト胎児においても一過性の鉄不足が性決定過程に影響を及ぼす可能性があります。胎児の鉄不足による貧血は、心臓・胎盤・神経系などの器官形成異常とも関連しているとも考えられているため、妊娠中に適切に鉄分を補給する重要性を示唆する研究ともいえます。
森田(平田)洋子 岐阜大学工学部 特任教授
1. 老化細胞におけるリソソーム酸性度低下の意義
リソソームは、細胞の中で不要になったものを分解する「小さな袋」のような構造で、内部は通常、酸性に保たれている。ところが、老化した細胞やがん細胞では、この酸性が弱まり、中性化することが知られている。老化細胞ではこの変化が大きく、細胞の働きが低下して炎症が起きやすくなる。一方、がん細胞ではpHの変化が比較的軽いため、逆に細胞の増殖が促され、薬への耐性も高まることがある。2. フェロトーシス誘導と治療戦略への応用可能性
フェロトーシスは、2012年に発見された新しいタイプの細胞死である。鉄(2価鉄イオン)依存的に細胞の中で「過酸化脂質」と呼ばれる物質が蓄積することにより、酸化ストレスが強くなり、細胞が障害される。アポトーシスと呼ばれる生体恒常性を維持するために必要な細胞死とは違い、フェロトーシスは主に外因性のストレスによって起こる。この仕組みに注目することで、これまでとは異なる方法で病気を治療できる可能性がある。実際、がん、代謝性疾患、神経変性疾患など様々な病気にフェロトーシスが関係していることが示されており、フェロトーシスを標的とした新しい治療法の開発が期待される。3. 今後の研究課題
リソソームを酸性化させる治療戦略は、老化細胞やがん細胞のようにリソソームが中性化している細胞を選択的に標的とできるため、正常な細胞への影響が少ないことが期待される。しかし、リソソームの酸性化を担うタンパク質、特にV-ATPaseは細胞膜など他の細胞内区画にも存在するため、これらへの影響を最小限に抑えることが実用化に向けた重要な課題である。 また、フェロトーシスの制御は、がんを含むさまざまな加齢性疾患に対する新たな治療戦略として注目されている。一方で、アルツハイマー病やパーキンソン病などの神経変性疾患では、フェロトーシスが細胞死に関与している可能性が指摘されており、疾患ごとに異なるフェロトーシスの役割を考慮した多面的なアプローチが今後求められる。4. 本論文に関する総評
本論文は、リソソームが中性化した老化細胞およびがん細胞において、リソソームを再び酸性化させることでフェロトーシスに対する感受性が回復し、細胞死が誘導される仕組みを明らかにした。さらに、リソソームの再酸性化を促す化合物EN6が、膵臓がん細胞を移植したマウスにおいて腫瘍を縮小させることも示された。これにより、がん細胞の酸化ストレスに対する耐性にリソソームの中性化が関与していること、そして薬剤による再酸性化が有効な治療戦略となり得ることが、動物モデルを用いて実証された。これらの知見は、老化細胞の除去や新たながん治療法の開発につながる可能性があり、今後の応用が期待される。5. その他
これまで、アポトーシス(細胞の自然な死)を標的とした治療薬の開発が精力的に進められてきたが、決定的な成果には至っていない。これは、アポトーシスが生体の発達や恒常性の維持に不可欠な仕組みであり、その過剰な抑制が副作用を招くおそれがあるためである。一方、酸化ストレスによって誘導される「フェロトーシス」は、アポトーシスとは異なる経路で細胞死を引き起こすことから、新たな治療標的として注目されている。老化細胞やがん細胞では、フェロトーシスが抑制されていることが多く、その誘導が治療戦略となり得る。一方、アルツハイマー病やパーキンソン病などの加齢性神経変性疾患では、逆にフェロトーシスの過剰な活性が細胞死に関与している可能性が指摘されており、フェロトーシス制御の方向性は疾患の種類によって異なる。最近では、フェロトーシスを抑制する薬剤の研究も進展しており、既存薬の中にも本来の作用とは別にフェロトーシス抑制効果を持つものがあることが報告されている。また、ポリフェノール(ケルセチンやレスベラトロール)、ニンニク由来成分(アリシン)、プロポリスに含まれるアルテピリンCなど、食品由来の天然化合物にもフェロトーシス抑制作用があることが示されており、治療薬としてだけでなく予防的な観点からの応用も期待されている。
有澤琴子 東北大学 助教
1. 老化細胞におけるリソソーム酸性度低下の意義
老化細胞におけるリソソームの酸性度低下は、オートファジー機能の障害や炎症惹起の原因として、以前から老化研究の重要なテーマとなってきました。リソソームの酸性度が低下すると、分解酵素の活性が損なわれ、老廃物の蓄積や炎症性サイトカインの分泌が促進されることが知られています。2. 膵臓がんとの関連性とがん治療へのインパクト
本研究は、リソソーム機能の変化が単なる老化の結果ではなく、フェロトーシスと呼ばれる酸化ストレス依存的な細胞死の抑制をもたらす原因になっていることを明らかにしました。これは、老化細胞や膵臓がん細胞の生存戦略の一端を示す新たな知見です。 リソソームは細胞内鉄の貯蔵と供給に関わり、酸性度はその機能維持に必須です。最近、リソソームがフェロトーシスの起点となりうることが報告されましたが(PMID: 40229298)、本研究により、リソソーム酸性化がフェロトーシス誘導効果を高めうることが動物モデルで示された点は応用的意義が高いと言えます。3. 今後の研究課題
今回使用されたV-ATPase活性化剤EN6は、リソソーム酸性度を標的とする治療戦略の可能性を示すものですが、がん細胞に対する選択性や長期的な安全性、薬物動態など、臨床応用に向けた課題も多く、今後の研究の進展が期待されます。 アルツハイマー病でもリソソームの機能不全が報告されており、リソソームを標的とした治療戦略はがん以外の加齢関連疾患においても有用になる可能性があります。
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